モームが愛したタヒチ
 9. 僕のタヒチ出発のときが

 僕のタヒチ出発のときが来た。
 船がゆっくり環礁を滑り出し、用心深く珊瑚礁のきれ目を抜けて、やがて大洋に向かって針路を転じると、僕は急に悲しさがこみ上げてきた。
 風には、まだ快い島の香りが漂っている。
 タヒチといえば、遥かな国だ、もう二度と訪れて来ることはあるまい。
 僕の人生の一章が閉じられた。
「月と六ペンス」中野好夫訳




 朝食の後余ったパンを持って海に入る。

 ここに来てから決まりごとのように行われていた朝の遊泳も今日で最後である。
 

 泳いだ後に、シャワーを浴びる。

 いつもならここからうたた寝が始まるのだが、今日は違う。


 旅の荷物をかばんに積めて島を出る準備をしなければならない。


 荷物をつくり終わって、バルコニーに出る。

 海は、ぼくがこの島にやってきたときと同じ色をし、同じにおいをしている。

 それがこの島の「こんにちは」であり、「さよなら」なのかもしれない。


 

 バンガローの扉を閉めて、桟橋を渡って船着場まで。


 整然とならんだバンガローの前をゆっくりと歩いていく。

 まっすぐに伸びた桟橋の柱にゆるやかな波がぶつかっては砕ける音が聞えてくる。


 この島をかたちづくるひとつひとつのものに心のなかであいさつしながら歩いていく。


 タヒチは遥かな遠い国である。
 もう二度と来ることはないかもしれない。

 出発してしまうのは残念だ。しかし、悲壮感といったものはない。


 


 ただ、やしの木に取り付けられたハンモックや、砂浜に並んだデッキチェアを見ると思うのだ。

 今朝やりそこねたうたた寝をまたいつかここでできたらな、と。